日本で最初の鉄道開業式は明治5年9月12日
明治5年(1872年9月12日)新暦だと10月14日は、日本の鉄道の歴史にとってとても記念すべき日であります。
そう、この日は新橋~横浜間に初めて列車が走った日なんです。
この鉄道開業がどれほど凄いことかというと、鉄道開業式典の列車に乗車した人物を見てみると良く分かるのではないかと思います。
歴史の勉強をした中で、みなさんもきっと一度は聞いたことのある人物がいると思います。
ではさっそく紹介していきたいと思います。
乗車した歴史上の偉人たち
お召列車は9両編成で、午前10時に新橋駅を出発しました。
1号車と2号車
〇近衛兵
まあこのへんは、お偉いさんがたくさん乗車するということで、王室などを守護する近衛兵が警備にあたるということで乗車したようです。
3号車
〇明治天皇、有栖川宮熾仁親王、三条実美、山尾庸三、井上勝
明治天皇は言わずもがな誰もが知っていると思います。
有栖川宮熾仁親王、読み方はありすがわのみやたるひとしんのう、、、どこで区切って読んだらいいのか難しい。。。
皇族のかたですね。自分は全く詳しくないのですが政治家、軍人として活躍した人物のようです。
三条実美というかたは、名門の公家出身のかたみたいで明治政府では、太政大臣や内閣総理大臣兼任など重要な職についたかたです。
山尾庸三(やまおようぞう)は「工業の父」と呼ばれた長州藩出身の長州ファイブの一人です。
長州ファイブというのは、長州藩出身でイギリスに秘密裏に留学し、のちの日本において偉大な功績を残した5人のことを指すのですが、
他に伊藤博文、井上馨、遠藤謹助、井上勝がいます。
日本が誇る最高峰の大学を創設
山尾庸三(やまおようぞう)さんは、明治4年に工学寮を設立。
工学寮は明治10年に工部大学校に改称し、のちの東京大学工学部へとなります。
井上勝(いのうえまさる)さんは、山尾庸三さんと同じく長州ファイブの一人で「鉄道の父」と呼ばれています。
まさしくこのお方が、現在の鉄道の基礎を作ったといっても良いぐらいの人です。
明治5年の鉄道開業にあたって鉄道頭(てつどうのかみ)専任し、法規の制定や職制の整備、工事の指揮など常に先頭に立って指揮し
新橋~横浜間の記念式典では、初代鉄道頭として明治天皇と往復の列車内に陪席しています。
早稲田大学創設者、せごどん・板垣退助ら征韓論で敗れた偉人達
4号車
〇大隈重信、西郷隆盛、板垣退助、副島種臣、アメリカやイタリアなど各国の公使
大隈重信さんは、伊藤博文と一緒に鉄道建設を積極的に推進した人物でした。
大隈重信は、佐賀藩出身の秀才で、のちの大蔵省を築き上げ、内閣総理大臣にまでなっています。
ちなみに早稲田大学の創始者でもあります。
西郷隆盛は、大河ドラマでお馴染みの「せごどん」ですね。
西郷隆盛は鉄道建設に反対する一人でした。
この西郷隆盛は、薩摩藩出身でこの薩摩藩出身の藩士が多くいたのが、当時の弾正台(のちの司法省)でした。
新橋~横浜間には、一部海上を埋め立てて蒸気機関を走らせているのですが、この理由は西郷隆盛出身の薩摩藩の管轄する敷地であったため、鉄道建設に反対されたことで用地買収が出来なかったことから、海中に築堤を造り列車を通したのが原因でした。
それから板垣退助さんは、「板垣死すとも自由は死せず」のフレーズがとても有名ですね。
自由民権運動の政治家です。
歴史の勉強では、政治家として習いましたが、もともとは土佐藩出身で戊辰戦争などでは、その軍才に優れたとても明治政府発足に貢献した人物の一人です。
その後、西郷隆盛らと征韓論を主張し、大久保利通らとの考えの違いから、政府を去ることになったのですが、その後、政治家として日本を変えていこうとしました。
副島種臣さんは佐賀藩出身で板垣退助らと共に下野し、政治家になった一人です。
5号車
〇井上馨、勝海舟、江藤新平、山県有朋、黒田清隆、陸奥宗光、ロシアとイギリス公使
井上馨(いのうえかおる)さんは、山尾庸三さんらと同じく長州ファイブの一人です。
明治維新後は各大臣を歴任し、実業界の発展にも大きく関わった方です。
6号車
〇陸海軍の将官
7号車
〇徳川慶勝、松平慶永、島津忠義、毛利元徳、細川護久、琉球伊江王子の尚建
8号車
〇工部省、鉄道寮の関係者
大役を見事果たした井上勝
この主要人物が多く出席した開業式典を仕切ったのは、井上勝で式典の企画から演出、進行、会場の飾りつけまで井上勝が取り仕切ったそうです。
しかもこの時の年齢が28歳だったというのですから、それだけでも相当な重圧であったのではないでしょうか。
自分が28歳でこのような大役を預かったらストレスでお腹が痛くなってしまうかもしれませんね。。。
この時のエピソードがあるのですが、この式典で万国旗を飾るには、旗の数が足りなかったため、提灯を吊るすことにしたそうです。
この提灯を吊るす飾りつけが、開業式での様式の習わしとなり、その後の日本の鉄道開業や開通式で用いられることになったのだそうです。